【第23号】「自分の時間」や「自分という存在」は、本当に「自分のもの」なのか?

「シュワちゃん」こと、アーノルド・シュワルツェネッガー氏が以下のようなコメントをしていました。

――――
「自分とかかわりのある人や職場環境などが自分にマイナスの影響を与えていると感じたら、
私はすぐさまその関係を断つ。」

「仕事だろうが友達だろうが私にマイナスの影響をもたらし、目標に向かうための障害になるのなら、
躊躇せずにその関係を断る。」

――――

「自分はシュワちゃんのようにはなれないけれども、本当も自分もそうしたい!」

シュワちゃんの意見に共感する人は多いのではいでしょうか。
この考えは、「自分の人生は、自分のもの」という前提に基づいています。

「プライベートな時間を大切にしたい」
「『時間泥棒』の人とは付き合いたくない」
「一度きりの人生、自分の時間を邪魔されたくない」

確かに言っていることは理解できます。
一方で、筆者は違和感も覚えました。

「もしシュワちゃんから見て、自分が『会う価値のない人間』と切り捨てられたら、自分はどう思うだろう?」
「シュワちゃんみたいな価値観の人で世の中溢れたら、誰しも人間関係を築くことをためらうのではないだろうか?
『自分という存在は、会う価値のある人間なのだろうか?相手の時間を奪いはしないか?』と。」

最近は、気軽に電話をかけることすらはばかられる印象があります。
それだけ、現代に生きる人は「自分の時間」や「他人の時間」を意識していると感じます。

◆今日の質問
「『自分の時間』や『自分という存在』は、本当に『自分のもの』なのか?」

◇解説
自分で稼いだお金、自分が買ったもの、自分で作ったものは「自分のもの」というのは常識です。

では、そもそも「自分の体」は誰が作ったものでしょうか?
決して、自分が作ったものではありません。

両親…ひいては、連綿たる生命の紡ぎによって生み出されたものです。
もっと言えば、「私」と「あなた」と二元的に存在するようでも、
「人は素粒子の集合体である」という真実に立てば、万物は素粒子の集合体という点で一元的に存在し、すべては融合しているとも言えます。
突き詰めれば、自分の体は「宇宙から与えられた借り物」としか言いようがありません。

「自分の体は自分のものである」という前提に立つか、
「自分の体は宇宙や祖先からの与えられたものである」という前提に立つかによって、
世の中に対する捉え方や、物事の考え方、行動様式は180°変わってきます。

何をどう捉えるかはその人の自由です。
しかし、どちらが真実であるかは言うまでもありません。

いずれ私たちの体は消滅し、自然に帰っていきます。

すると「借り物の体」が活動状態にある間に、世の中にどう還元していくか?後世にどう残すか?
このように考えた方が、理に適っているとも言えます。

「自分の体は自分のもの」と考えると、
自分の体、自分の時間、自分の財産、自分の土地、自分のモノ…という発想になります。

このように「借り物の感覚」を失ってしまった人のことを、哲学者オルテガは「慢心した坊ちゃん=大衆」と名付けたそうです。

大衆には2つの心理的特性があります。
1. 生活の便宜への無制限な欲求
2. 生活の便宜を可能にした過去の努力、他者の努力への忘恩

冒頭に話題に戻ります。
シュワちゃんを悪者する扱いするつもりはありません。
ただ、「目標に向かう障害」の「目標」とは何なのか?
それは自分中心のものなのか?世の中に向いているものなのか?は聞いてみたいところです。

実は筆者自身、ずっと「時間も体も自分のもの」という感覚で生きてきました。
ですが、ゆえに「時間を奪われた」「思い通りにならない」など、苛立ち、苦しみ、執着する場面も多かったです。
ゆえに、他者を「排除する」「差別する」ということもありました。
(その逆もありましたし、「今はない」と言えばウソです。)

一方で、「時間も体もすべては与えられたもので、世の中に還元していくもの」と捉えた時、
身も心も軽くなり、穏やかになる感覚になりました。

そして、少しずつですが、他に貢献し、一体感を覚えることで生きる喜びを感じている今日この頃です。

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