【第35号】怨望社会とは?

メンタリストDaigoさんの発言が物議を醸しています。
筆者自身、彼を評論できる立場にはないのでコメントは控えさせていただきますが、
「メンタリスト」が「メンタル」をやられてしまうのではないか、若干心配しています…。

それはさておき、
「著名人の不適切発言がクローズアップされ、一斉に叩かれる」という「しくみ」が確立されています。
SNSで映像や文字が記録として残りやすくなった現代はなおさらです。
異常なまでの多くの関心がそこに集まるわけです。

かの福沢諭吉は、「学問のすすめ」で次のように語っています。

――――
「怨望(えんぼう)は、最大の悪徳」
「ねたみ」は百害あって一利なし

欠点も時と場合によって美点になる。
欲張り、ケチ、贅沢、誹謗…どれも大きな欠点。
しかし、本質のところでは別に悪いものではない。
時と場合によって、欠点でなくなることもある。

たとえば、「お金持ちになりたい」のを欲張り、
「お金を失いたくない」をケチという。
けれども、お金が好きなのは人間の本性。
その本性にしたがって十分満足させようとするのは、決してとがめるべきではない。
ただ、道理をわきまえず利得を図れば、それは大きな欠点となる。
だから、金を好む心の働きを見て、ただちに欠点としてはいけない。
美点と欠点の境界には、一つの道理というものがある。

誹謗と批判 / 驕りと勇敢さ / 粗野と率直 / 頑固と真面目さ / お調子者と機敏さはペアになっていて、どれもみな場面・程度・方向性によって欠点にも美点にもなる。

ただ一つ、完全に欠点一色で、どんな時と場合でも欠点中の欠点と言えるのは「怨望」である。

怨望は、働き方が陰険で、進んで何かをなすことがない。
他人のようすを見て、不平不満を抱き、自分を省みずに他人に多くを求める。
そして、不平不満を解消して満足する方法は、他人に害を与えることになる。

たとえば、他人の幸福と自分の不幸を比較して、
自身を改善して満足するという方法を取らずに、
かえって他人を不幸におとしいれて、それによって自分と他人を同じ状態にしようとする。

このような者の不平を満足させようとすれば、世間一般の幸福が減るだけで、何の得にもならない。

怨望から、猜疑心、嫉妬、恐怖、卑怯が生まれてくる。
怨望は、諸悪の根源である。
――――

福沢諭吉は現代を生きているのか?と思うくらいに、今の世相を言い当てています。

では、「怨望」は何から生まれてくるのでしょうか。

福沢諭吉はこう述べています。

――――
怨望は貧乏や地位の低さから生まれたものではない。
ただ、人間本来の自然な働きを邪魔して、いいことも悪いこともすべて運任せの世の中になると、これが非常に流行する。
――――

これはどういうことでしょうか?

人間は本来は、「自己決定」「自由」を望む生き物です。
「束縛」や「不自由」を嫌います。

自分で決めた、
自分で何かをした、
結果、何かの役に立った、成し遂げたときに、
人は生きる喜びを実感します。

反対に、
他人や世の中が決めたレールに乗り、
常識や世の中の空気に従って、自らの意見を閉ざし、
他人が決めた通りにやっても、
結果、思い通りにならなければ、当然他人への恨みつらみが生じます。

そう考えれば、誰しも「自己決定」「自由」な生き方を望むはずです。
ただ、そこには「挑戦」「苦労」「リスク」「失敗」がつきものです。
ゆえに「安心」「安定」「安楽」と引き換えに、自らを自分の檻の中に閉じ込めます。

そして、今日一日、何かに挑戦せず、安易な道を選び、
挑戦する者の失敗を密かに願い、他者の失敗や失態を見て自らの存在を確かめる…。
これが、怨嗟社会の実態です。

「天は自ら助くる者を助く」

福沢諭吉は、天から今に生きる私たちに、
そんなメッセージを送っているように思えてなりません。

文責:栄木

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